2017年10月21日土曜日

感謝の気持ちと畏怖の念



年を取ると月日の経つのが早いですね。
このまえ花見のブログを乗せたと思ったらもう秋のお彼岸です。

この心地よい秋の季節を長く楽しみたい支援員の竹下です。
お盆はお寺で先祖の戒名を読み上げてもらい
檀家の人たちと仏説阿弥陀経を唱える行事に参加し、
それから約一か月後にはお彼岸でお墓参りと宗教儀式が続くと
宗派について考えたりします。
私の家は浄土真宗なのですが、
現世利益を求めてしまう私には何となく縁遠いような気がしていました。

私は20歳代半ばまでは、
順調に思い通りにやってくることができたということもあってか
無神論を通してきました。
学生時代にアルベール・カミユの影響を受け宗教は無力であり、
必ずしも救われることのない宗教に頼るのは
心の弱い人だという考えを持っていました。

30歳という節目に差し掛かったあたりから何も進展しない自分に挫折を覚え、
無力を実感しました。
困難を超えるのは意志の力だけだということに自信がもてなくなりました。
そのときはじめてよりどころのない空虚さを感じました。
人如何に生くべきか的な本を読みあさり
必死で自分と現実との間隙をうめようとしました。
そういった哲学的なものに触れる時、
たとえとしてわかりやすく触れるのが宗教で、
悩めば悩むほど最終的に行きつくところなのだと実感しました。
あまり特定せず儒教、道教、仏教など
様々な考え方やものごとのとらえ方を知ることで乗り越えてきました。

いろいろな考え方やとらえ方を学ぶうちに
 20歳代半ばまで順調にきたのは自分だけの力だけではないことに気づき 
30歳の挫折は自分自身の驕りに天罰が下ったと思いました。
宗教によって表現が違いますが
何かしら力の存在というものをそれ以来感じるようになりました。
自分の中で今現在無事でいられる感謝の気持ちと
悪いことができない畏怖の念を抱き始めました。
今でも自分は特定の宗教に属していませんが、
悩んだ挙句私が行きついたのはそういうところです。

715日から93日まで
奈良国立博物館で開催されていた特別展「地獄極楽への扉」を見てきましたが、
あの世も因果応報の世界観で現世と同じだと感じました。

死後の世界観を説いた恵心僧都源信は、
現世いかに生くべきかを伝えるために死後の世界を伝えたのだと思います。
人々の声を感じ苦悩から救うといわれる観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍を務め
あの世に旅立つときは真っ先に迎えに来ます。
また信じれば願いを叶え決して空しい思いをさせないといわれる不空羂索観音の頭にある化仏は阿弥陀如来です。
そう考えると浄土真宗も決して無縁ではないと感じました。

様々な考え方やとらえ方に触れることで気づかされることが多いので、
何事も真正面からとらえるだけでなく
あらゆる側面から見つめることが大切だと思います。

来年のお盆で唱える仏説阿弥陀経は気持ちの上で違ったものになりそうです

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