お盆に実家に戻った時に
母親から「タイカレーの缶詰が辛すぎるから持って帰って」と言われ
3缶もかばんに詰め込まれてしまいました。
代表の生熊です。
カレーを辛すぎると言われても・・・
という感じですが^^;;
70代の母親にはタイカレー独特の辛さが
物凄い刺激のように感じられたようです。
持って帰って食べたのですが、
いたって普通のタイカレーでした。
美味しかったです^^
さて、今回から2回にわけて
「わかっているけど難しいこと」
について最近考えていることをシェアしたいと思います。
今回は「正論について」です。
私は20代後半でカウンセラーの勉強を始めるまでは
「正論」以上に正しいことはないと思っていました。
例えば学校などで
「廊下は走らないこと」というルールがあれば、
とにかくそれに従うのが正しいと信じていました。
でも、自分では「廊下は走っちゃだめでしょ」という勇気もなく
「廊下を走っている人」を見るとただ悶々と以下のようなことを考えていました。
廊下は走っちゃいけないのに、
・なぜあの人は走っているのか
・なぜ誰も注意せず当たり前のような空気になっているのか
・廊下を走っているのを注意されず受け入れられるんだったら、そもそもなんでそんなルールがあるんだろうか
走っている人への「嫌悪」や「怒り」
周囲への「不信」「苛立ち」
そしてルールそのものやルールを作る学校への「強い不信」「絶望感」
そんなものが体内で渦巻いて
そして最終的にどうなるかと
私は「走ればいいのか」「歩けばいいのか」わからなくなり
ぐるぐる考えすぎて廊下に立ち尽くします。
他にも「授業中は静かに」「給食は残さない」など学校生活はこの類のオンパレードでした。
学校生活が終わっても
「正しい」とされている事がまったくもって守られておらず
それがまかり通ってしまう事への「不信」から
どうすればいいのかわからなくなってしまうという繰り返しは度々起きました。
よく見かけるのは「信号無視」ですよね。
特に関西は多いと思います^^;;;
私は「信号無視」をしている人を見かけると
歩行者の「信号無視」がこれだけあるのだから、
きっと車に乗っている人の「信号無視」も数多くあって
例えば、私がルールを守って「青信号」で横断歩道を渡っていても
信号無視をした車にはねられる可能性があるんだ・・・・
と思うと怖くて街を歩けなかった時期もあります。
ここでポイントになるのが「ルール」ですよね。
「ルール(規則)」というのは
ある集団の活動をよりスムーズに気持ちよく行うために設けられた決まりごとのことです。
ある集団というのは国家という大きなくくりから、家庭や恋愛、あるいは個人までさまざまありますが
「ルール」がないと無秩序な状態に陥り、危険が増幅し、混乱や争い、略奪などが起こり
集団を維持できなくなります。
それを考えると「わざわざルールとして決めておかないといけない」というのは
人間は危険と知っていてもやってしまう可能性が非常に高い「衝動的」な行動をしてしまうから
という理由なのでしょう。
つまり「廊下は走らない」と決めているのは
「廊下を走りたい」あるいは「廊下を走ってしまう」人が多く事故の危険性があるから。
ルールの側からすると
人間は「廊下を走りたく」なってしまう「衝動」を持っているから
わざわざルールにした、という構図。
つまり「ルール」は破られやすさをはらんでいる、という事なんですね。
その昔「ゴミはゴミ箱へ」という至極あたりまえな標語をあちこちで見かけましたが、
社会人になってから「ゴミをゴミ箱へ」捨てない人の多さにびっくりしました。
机の上にゴミを乗せたままの人、隅っこに寄せているだけの人、その場にポイ捨てする人。。
正に「ルール」は破られやすさをはらんでいて、
人間は不衛生になる危険を知っていても衝動的にゴミを捨てるのは面倒に思ってしまうのだな、と感じます。
ではこういった人たちに「正論」で
「ゴミはゴミ箱に捨てなあかんやろ」と言ったらどうなると思いますか?
「わかってるわ!!」
「うるさいなぁー」
「ゴミくらいええやん」
こんな言葉が返ってきそうですね。
あるいは「そんなに言うんやったらあんたが捨ててよ!」という人もいるかもしれません。
中には「ごめん、その通りやわ、ゴミはゴミ箱に捨てるね」といってゴミ箱に捨ててくれる人もいるでしょう。
10人いれば10通りの反応があると思います。
「ゴミをゴミ箱に捨てない」多くの人は
「ルールはわかっているけど何らかの事情がありそのように出来なかった」
という状況なのだと思います。
「正論」は正にはじめの部分「ルールはわかっている」の部分だけをピックアップして
指摘することになります。
しかし、実はルールを破った本人が聞いて欲しいのは
「何らかの事情」という部分だったりするのです。
その「事情」を汲み取らずに「ルールを破っている」という部分だけを指摘されれば
「何やねん、人の気も知らないで!」と反発したくなってしまうのでしょう。
それと同時に「正論」を伝える側の声のトーンだったり、感情だったり、立場だったりで
これまた「反応」も全く違ったものになると思います。
あるいは「ゴミをゴミ箱に捨てる」というルールそのものが身についていない人や
それがルールとは知らない人も中にはいたりします。
食べ散らかしや、部屋の隅にゴミを溜め込む人などは
これまでの生育暦の中で
「誰かが食べ散らかしやゴミを捨ててくれていた」のです。
自らの手で「ゴミ」を捨てる経験が極端に少なかったため
「ゴミをゴミ箱に捨てる」という習慣が身についていません。
つまり、ルールを破るという気が本人にはありません。
そこに「ゴミはゴミ箱に捨てなあかんやろ!」と「正論」をぶつけても
「へ?そうなの??」という状態になります。
他にも外国から来た旅行者は、ゴミ箱のルールそのものが日本で暮らす人と違うので
捨てちゃいけないものを捨ててみたり、捨てちゃいけないところに捨てたりします。
そんな人には「正論」云々というよりはルールそのものを説明する必要があります。
こうなると「正論」そのものが
絶対的な「正義」ではないという事が浮かび上がってきます。
そうなんです。
ルールが人の手で作られた以上は、「正論」もその集団の中でしか効力をもちません。
しかし、ルールはお互いが気持ちよく過ごしたり、暮らしたり、活動するために設けられているはずです。
それを自覚して「正論」を使うことが求められます。
ルールを破る者についての「事情」を推し量ることは
「正論」が「正論」足りえる効力を持つためにもとても重要です。
「事情」について傾聴された人は、意外にその後ルールを理解し実践するようになります。
そうなればみんなが気持ちよく過ごせるようになる。
社会や国家そのものの構図は中々変えることができないかもしれませんが、
※それに立ち向かう「正論」の運動もこれまた大切ではありますが、、
二者間や身近なところから
お互いを「信頼」しあえる関係を築いていけたらいいな、と思っています。