2019年1月4日金曜日

共に働いているという事を伝える難しさ 映画「グレテストショーマン」

こんにちは。代表の生熊です。
私が映画好きという事は以前にも書いた事があるので、今更なのですが
映画「グレイテストショーマン」を観て思った事があるので書いてみたいと思います。

この映画は「19世紀に活躍した興行師、P・T・バーナムの成功を描くミュージカル映画(wikipediaより)」です。
近代フリークショーの火付け役となったP・T・バーナムは身体的に奇異な人たちを集めた「エンターテイメントショー」を開始します。
ミュージカル映画なので、色々な細かい設定はいろいろ省かれて書かれていますし、実際のP・T・バーナムとは少しかけ離れた部分もありますが
日々「障がい者」と接している者としては興味深い部分がたくさんありました。
賛否あるにしろ「フリークショー」や「見世物小屋」は「障がい者が収入を得る一つの方法」であったといえます。

最初に彼らを迎え入れたP・T・バーナムも彼らを「労働者」としてではなく「展示物」の延長線上だと思っていたのでしょうが、
それだけでは「上手くいかない」事がわかってきます。
反対にP・T・バーナムに求められた「フリーク」達も最初は「受け入れられる事に戸惑いながらも感謝する」のですが、
幾度となく興行を重ねるうちそれだけではない「労働者」としての自覚が芽生えてきます。

こういう状況は「JiRiTs」をはじめ多くのA型事業所でよく観られる光景だと思います。

「支援者」と「利用者」は上下の関係ではありません。
しかし「支援者」の中には「利用者」を「支援が必要な足りない人」「指導しなければならい人」と思っている人も少なくありません。
反対に「利用者」の中には「支援者」に「品行方正な完璧」を求めたり「どんな時でも優しく許してくれる存在」だと思っている場合もあります。

この勘違いにより起こる日常のいざこざの多いこと!

P・T・バーナムとフリークが互いにパートナーとして同じ目標に向かって「それぞれの仕事を全うする」のがとても難しかったように
「支援者」と「利用者」が同じ事業所で共に働いているという事を、どちらともに同じくらい持ってもらう事の難しさを日々感じています。

いろんな人がいる、という多様性も「支援者」「利用者」の境目はありません。

ただ、この感覚は日々共に利用者さんと働いているからこそ持てる感覚だと思います。
P・T・バーナムとフリークの関係がいくら良好であっても、第三者からみれば「フリークを憐れみや蔑みの目にさらしてお金儲けをしている」というように見えてしまうでしょう

。もちろん、第三者の中にある「奇異を観てみたい」という好奇心をお金に変えているという部分は確かにあると思います。
ただ、それだけではリピーターは増えません。入り口は好奇心でも、来たものを魅了し楽しませる「芸や技術」と「エンターテイメント性」がそこになければ「フリークショー」

や「見世物小屋」の興行は成り立たないのです。

残念ながら、我々A型事業者も第三者からみると「働きたいという障がい者を集めてお金儲けをしている」ように思われています。
もちろん「働きたいという障がい者」が集まっている事に間違いはありませんが、その気持ちに合うだけの「仕事」がなければA型事業所は成り立ちません。
以前も書きましたが「仕事」に「障がい者用」というものは存在しません。
それなのに働き手が「障がい者」であることで、第三者から「仕事」に対する値引きを受けます。この値引きはとても根強く、そうそう簡単に払拭できません。

我々はそこにも常に挑戦し打破する努力を続けなかればならないのです。
「フリークショー」や「見世物小屋」が「障がい者が収入を得る一つの方法」であった時代から随分時間が経っているのに、まだまだ理解は進みません。

「支援者」と「利用者」が互いに共に働いていると感じる難しさと同じくらい
A型事業所が「支援者」と「利用者」が互いに共に働いている企業体であると社会に理解してもらう事もとても難しいと考えています。

ではどうすればいいのか?という答えはよくわかりません。
ただ、一つ言えるのは少しでも「企業体」として存続し、「仕事」での信頼を得る事が理解の緒になると信じてJiRiTsは「仕事」をしています。

社会の変容はとてもゆっくりです。
P・T・バーナムとフリーク達が夢見た世界に我々は暮らしているのでしょうか?
私はまだまだのような気がしています。
我々の働きにより、100年後には今よりももっとよい社会になっている事を望みます。


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